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みんなのおもい
2024.03.11 13年前 被災地にやってきた若者たちが始めた 子どもが自分らしく生きるための地域づくり~東日本大震災から13年~

今日は、東日本大震災の発生から13回目の3月11日。日本全国で災害は度々起こり、能登半島では今も避難生活を強いられている方々がいます。支援活動を続けることが困難な状況にあるという報道を目にすると、継続して支援をする難しさを考えさせられます。

ハタチ基金では、東北で震災直後から活動を続ける団体を、13年間、助成という形で支えてきました。皆さんからのご寄付のおかげです。助成で新しい取り組みができた団体もあります。

今回、震災直後から継続して活動を続ける、「認定NPO法人底上げ」の矢部寛明さんと、震災時は中学生だった「NPO法人みやっこベース」の八島彩香さんに、ハタチ基金ディクターの相内洋輔とともにインタビューをしました。継続して支援を続ける中で見えてきた、東北の子どもたちにとっての、復興のその先の未来に必要なことを伺いました。

※インタビューは2023年秋に行われたものです。

認定NPO法人底上げ 代表 矢部寛明(やべ ひろあき)さん

埼玉県出身。大学卒業間近で東日本大震災が発生。ママチャリの旅でお世話になった宮城県気仙沼市の旅館が避難所になっているという話を聞き、社長と女将の力になりたいと気仙沼でボランティアを始める。現地で出会った仲間と学習支援も並行して取り組む中、2012年にNPO法人底上げを設立。東北の子ども・若者が自分らしさを発揮できる機会やプログラムを展開。2022年には福島県楢葉町でも子どもの居場所づくりをスタート。東北芸術工科大学コミュニティデザイン学科教員。地域雇用活性化支援アドバイザー(厚生労働省)などを務め、活動は多岐にわたる。宮城県川崎町在住、2児の父。

NPO法人みやっこベース 八島彩香(やしま さやか)さん

宮城県宮古市出身。中学3年生のときに被災。当時、多くのボランティアや支援団体に支えられたことへの思いが、今の活動の原動力となっている。震災後にやりたいことが何もなかった高校生の自分を変えてくれたきっかけが、みやっこベースとの出会いだった。仙台の大学へ進学しその後就職をしたが、宮古のために何かしたいという思いは消えず、2022年、夫とともに宮古へのUターンが実現する。みやっこベースは、子どもたちや若者が望む未来を自ら創れることを目指して、出会いや機会の提供を進めている。宮古市在住、1児の母。

ハタチ基金事務局 ディレクター 相内洋輔(あいない ようすけ)

宮城県仙台市出身出身。大学卒業後、株式会社リクルートへ入社。仙台で営業担当として勤務をする中、東日本大震災が発生。大切な友人を亡くす経験や、地元の被災を目の当たりにしたことで、東北の人たちのためになることを仕事にしたいとリクルートを退社。その後、東日本大震災復興支援財団にて「NPOへの助成金事業」、ソフトバンク社の「東北の次世代を担うリーダー育成事業」に従事する。2018年独立。ワークショップデザイナーとして全国の若者支援を行う。宮城県仙台市在住、1児の父。

中学3年生のときの被災体験で人生が変わっていった

ーー矢部さん、八島さん、相内さんは、東北で活動する中で知り合って、もう長いつきあいになるそうですね。

相内さん:はい。僕は今、ワークショップデザイナーとして若者の支援プログラムを行っているので、度々底上げのプログラムにも講師として参加させてもらっているのでご縁が続いています。八島さんとは、確かまだ八島さんが大学生の頃でしたね。ずっと宮古に戻りたいって話していたから実現できてよかったです!

矢部さん:彩香(八島さん)がまだ大学生だったときが最初の出会いだったよね。東北で活動する子ども支援団体について論文のテーマにするから話を聞かせてほしいと連絡をくれました。

インタビューは仙台で実施。八島さんは宮古市からオンラインで参加してくれました。

八島さん:懐かしいですね。お二人のように、東北の若者のために活動している先輩たちに憧れて、この世界で働きたいって思ったんです。

ーーなんだか同郷の先輩後輩のような距離感ですね(笑) 震災当時、八島さんは当時中学生だったそうですね。

八島さん:中学3年生で卒業式が控えていました。

矢部さん:そうだよね。大変な卒業式になってしまったね。

八島さん:自宅は1階が浸水しましたが、家族はみんな無事でした。しばらくは避難所や自宅2階で避難生活を送っていましたが、家の周辺を片付けたり家の中を掃除したりして、インフラも復旧した約1ヶ月後には元通り住めるようになりました。高校入学は5月に延期されたので、それまでの1ヶ月間、何をして過ごせばよいか分からず、、家でテレビを見たりしながら時間を潰していました。

ーーそうだったんですね。

八島さん:時々、自分にも何かできることがあるんじゃないかという思いが湧き上がったりもしたのですが、どこに行けば手伝えるのかがわからなかったし、まだ携帯を持っていなかったので情報もなくて。ずっとモヤモヤしていました。

ーーモヤモヤですか。

八島さん:自分が被災した直後に、自衛隊の方とか市役所の方とか、地域の人たちとか、たくさんの大人たちがコミュニケーションをとってくれて、助けてもらったという思いが残っているので。何か漠然と、「自分も町の力になりたい!でも何をしたらいいか分からない」っていうモヤモヤは、高校へ入学してからもずっとありました。高校2年生のときに、中学時代の同級生と再会して、ボランティアやろうって誘われて。それがみやっこベースとの出会いでした。

ーーどんなボランティアだったんですか?


八島さん:行ってみたら、ボランティアではなくて、宮古の子どもや若者を対象にしたワークショップだったんです。宮古の好きなところ・嫌いなところ、将来どんな地域になっていてほしいか、といったことを意見交換する内容だったのですが、地元のために自分は何ができるのかを初めてそこで考えたんです。そのときに、私がやりたいことはこれだ!ってビビッときて。

高校時代に参加したみやっこベースのワークショップ。町の5年後の未来についてみんなで意見を出し合った。青い服を着ている女性が八島さん。

矢部さん:すごいねー!

八島さん:そこから、部活をさぼってみやっこベースに通う日々が始まりました。みやっこベースで地域の中や外の大人たちと会って話すことができて、すごく自分も成長できて。お世話になった人たちに恩返しをしたいし、これまで支えてくれた人たちと一緒に活動をしたいという思いに繋がっていきました。あれから13年が経ちましたが、この思いは今も変わらないです。

ーー 一度は宮古から離れた時期もあったそうですが。

八島さん:仙台の大学へ進学したのですが、「大学を卒業したらみやっこベースを継ぎます」って言って宮古を出たんです。今思えば恥ずかしいこと言ったなって思いますけど(笑)
その後、結局すぐに戻らないで仙台で就職をしたのですが、ずっと宮古に関わりたい思いは消えなくて。当時地域に関わる仕事をしていたため、「これ、宮古の案件だったらな」とか、ずっと考えてしまったりもしていて。

ーー地元への思いが強くなったのは、震災がきっかけだったりしますか?

八島さん:それはあるかもしれませんね。震災がなかったら、「地元の力になりたい」なんて考えいなかったでしょうね。

ーーそうなんですね。

八島さん:震災は、人生のターニングポイントになった出来事だったと思います。

東北被災地沿岸部で同時多発的に生まれた 子どもの伴走支援

ーー矢部さんは、今は宮城県の川崎町に家族で移住して、東北で活動を続けていますが、東北に縁はあったのでしょうか。

矢部さん:震災前、僕は大学生で、ママチャリで全国を旅していたんです。気仙沼で泊まる場所を探していたところ、ホテル望洋(現在は閉館)の社長と女将が泊めてくれて。お二人とはその後も交流が続いていたので、僕にとって気仙沼は大切な場所になっていました。

ーー気仙沼は、津波の被害とともに火災が町を飲み込んで大きく被災しました。矢部さんもショックだったのではないでしょうか。

矢部さん:もういてもたってもいられなくて、すぐに望洋の女将に電話をしました。女将は僕を心配して来ないほうがいいと言ってくれたのですが、行かなきゃという思いで現地に向かっていました。望洋は、次々と避難してくる人たちを受け入れていたので、お二人は疲弊していて。ホテルの清掃や避難した方々のお世話を手伝いました。その後は、当時気仙沼で出会った仲間、今の底上げメンバーと一緒に、中高生の学習支援へと内容を拡大していって、学習支援は2017年まで続けました。

底上げを設立した頃に撮影した立ち上げメンバーとの写真。右から、震災直後に気仙沼で緊急支援活動を行っていた斉藤祐輔さん、ボランティアとして長期で気仙沼に滞在していた成宮崇史さん。そして矢部さん。
2011年から6年間続いた学習コミュニティ支援事業。若者たちと一緒に書道を楽しむ様子。

ーー震災の翌年にNPO法人を立ち上げて活動を続けたんですね。

矢部さん:そうですね。気仙沼や東北で、まだまだ自分ができることがあったので。

災害公営住宅や新しい家が立ち並ぶ気仙沼(2023年9月 撮影)

ーーどうして10年以上も継続できたのでしょうか?

矢部さん:仲間がいるっていうことが大きいと思います。

ーー仲間ですか。

矢部さん:自分1人じゃできないことばかりだったので。底上げの仲間もそうですけど、彩香が所属しているみやっこベース代表の早川さんとか、一般社団法人まちとこ代表のぶちゃん(芳岡さん)とか、相内さんもそうだし。

相内:僕は震災直後はまだ会社員だったので、2年遅れての東北での活動でしたが、矢部さんとか直後から動いた人たちの勢いってすごかったですよね。

矢部さん:オール東北チームじゃないですけど、同じ方向を目指して活動を続けてきた仲間は親族に近いような感じで。最初は全然知らなかったんですよ。同じような子ども支援活動を同時多発的に沿岸部で始めた人たちがいて。あれ?実は隣りの地域で同じようなことをやってる団体がいるぞ、みたいな(笑) 徐々に繋がりができてきて、「なんだ同じようなことやってるじゃん」って。どうやってやってるの?と情報交換も始めたんです。

ーー面白いですね。

矢部さん:運命共同体みたいな仲間が出来上がったので、僕はそこへの帰属意識のようなものは強くて。

相内:家族ぐるみで仲がいいんですよ。

矢部さん:そうそう、仕事だけじゃないんですよ。用もないのに「元気?」って連絡を取り合える仲間で。結婚して子どもが生まれたら、その子たちも親族みたいなもんですね。なので、みやっこベースに入った彩香も親族(笑)

八島さん:はい(笑) 家族みんな、仲良くしてもらっています。

矢部さん:ちゃんとご飯食べてるのか気になって(笑) 彩香に子どもが生まれたので、早く会いにいきたいですね。

東北で活動する子ども支援団体の関係者とその家族でバーベキューを楽しむ様子。定期的に連絡を取り合って公私ともに支えあう仲に。

ーー東北にはたくさんの支援団体があって長く続けている団体も多いなと思っていたのですが、支えあう関係性ができていたんですね。公私ともにその距離感で交流できる友人って、都市部ではなかなか生まれない気がします。何かきっかけはあったんでしょうか?

矢部さん:やっぱりあれほどの大きな災害が起きたからかもしれませんね。

相内:大変でしたよね。

矢部さん:震災直後はみんな相当大変な思いをしていて。それでも何かできるはずだって勝手な思い込みでやってて。場所は違えど同じ思いで必死にやっていたっていう共通点が大きかったと思います。

僕たち、子どもたちをサポートしているメンバーを「伴走者コミュニティ」と呼んでいるのですが、2015年に「伴走者運動会」を開催したんです、岩手県大槌町で。

相内さん:あれは面白かったですね。

伴走者運動会。東北被災地で子ども・若者の伴走者として活動する人たちが集結した。
運動会後にはみんなでカラオケ。震災から4年後、ようやく震災当時の苦労を話せるようになった。

矢部さん:運動会の後にカラオケへ行って、CHAGE and ASKAを泣きながら歌ったりして。頑張ってきた俺ら、みたいな(笑)。震災があって、仕事をやめて東北に来た人もいましたし、公私ともに大変なこともあったけれど、当時は大変って口には出せませんでした。奇異な人生を選択した人たちが震災をきっかけに東北に集結したので、世の中を動かす強い力になると思っています。

ーー こうした外からやってきた特殊な人たちが東北に点在していて、子どもや若者をサポートしているというのは、被災した地域が将来良い方に向かう可能性を感じます。

矢部さん:外から来た人たちが住みついちゃうくらい魅力ある場所っていうことを、地元の子どもたちは気づいていないんですよ。中高生は東京や都会に憧れを抱いている。もしかしたら大人たちも…。

震災を機に東京からわんさか大学生が気仙沼にやってくるんですよね。しかも1日や2日だけではなくて、毎週通っている人もいるわけです。早稲田だ立教だって、自分たちが知っている大学の若者たちが。東京から来た人たちが、「気仙沼めっちゃいいよ」って地元の高校生に言ったりするんですよね。「え?何もない場所だと思ってたのに…。」って地元の見方が変化していくんです。

八島さん:私も外から来た人たちに地元の良さを教えてもらいました。

矢部さん:そうだよね。実はもしかしたら気仙沼も捨てたもんじゃないのかもって、高校生が地元で活動を始めるような現象も起きていて。それを間近で見ていて、発見と感動ですごく面白かったんです。無意識のうちにやっていたことですが、僕たちが気仙沼の子を東京の子と交流させたことで、自分たちの地域の魅力に気が付くんだって。

ようやくスタート地点 福島で暮らす子どもたちのこれから

ーー底上げは気仙沼を拠点に東北で若者・子ども支援を広げていく中、2022年から福島県楢葉町で新たな新規事業「ならはこどものあそびば」を開始しました。どうしてこのタイミングで福島で事業を始めたのでしょうか?

矢部さん:福島のことはずっと気になっていましたが、難しい地域だったのもあってどこかで目をそむけていたのかもしれません。

ーー難しい地域ですか。

矢部さん:再び人が住むようになったのは最近ですからね。双葉町や大熊町の一部は2022年にようやく避難指示が解除されたので。じゃあこれからどうするのかという議論が始まったばかりなんです。

福島第一原子力発電所周辺(撮影 2024年2月)

矢部さん:例えば、大熊町に企業や研究者を誘致するインキュベーションセンターができたのですが、すぐ脇には、震災で屋根が抜け落ちてしまったまま放置されているような家がたくさんあって。少し行ったらまだ入れないようにバリケードが張ってある場所があったりも。近未来的な建物と13年前のままになっている建物とが共存している地域に、人が戻ってきてどのような暮らしを営むのか、想像もできないなと。新しい校舎が完成してこれから移住してくることも想定されます。福島は課題が山積みですね。

大熊町の風景(撮影 2024年2月)

ーーそうなんですね。隣の楢葉町で子どもたちの居場所づくりを始めたのはどうしてだったのでしょうか。

矢部さん:楢葉町には、学校は一つしかなくて、児童館のような子どもが放課後に遊べる場所もそこに一つだけで。塾や習い事など民間の施設はありません。塾に通いたくなったら、車で40分かかるいわき市までいかなきゃいけない。

放課後に児童館しか遊ぶ場所がないため、そこのコミュニティが合わなかったら行く場所がなくなってしまうんです。極めて選択肢が少ない中で、子どもたちは日々を過ごしていて。隣町も含めて不登校になる子もいるので、そういった子どもたちは家にいるしかない状況で。 僕が見聞きしている範囲で言うと、避難した地域が合わなくて、戻らざるを得なくなった人たちが結構多いんですよ。震災から10年以上が経つので、避難先の地域で新しいコミュニティを作って平穏に暮らせれば、戻ってくる必要がないですよね。

ーー 確かにそうですね。

ならはこどものあそびば
大人も子どももありのままでいられる場所を目指して、地域の人たちとともにイベントなどを企画している。

矢部さん:楢葉町で子どもの居場所づくりを始めたら、地域の人たちから、うちでもやってよって言われたりもしていて。学校の機能が充実していることも大事ですが、それ以外の場所も必要だということを先生方もわかっているんですが、なかなか前に進めずに大変な状況にあります。

ーーそのような地域で、今挑戦を始めたわけですね。

矢部さん:気仙沼で助成金を原資に始めた子どもや若者を対象とした事業が、今、ちゃんと市からお金が出て受託してできる状況にたどり着いたんです。
この経験を、他の地域でも活かせるはずで。同じようなことをすればうまくいくとは限りませんが、少なくとも気仙沼でやってきたノウハウをうまく楢葉に転用したりとか、他の地域でもできそうな仮説を持っています。それが僕たちの強みだと思うので、子どもたちに還元していきたいですね。

 ーー地域の人たちに愛される場所になるといいですね。

矢部さん:そうですね。まずは子どもたちを地域で育てるという土壌作りから始めています。気仙沼のように地域と一緒に進めていけるようになるまでには、おそらく10年ぐらいはかかるでしょうね。そのくらいの覚悟はできています。

子どもたちが 復興のその先に進むために必要なのは「応援してくれる大人の存在」

ーー皆さんは共通して、子どもや若者を支援する活動を続けているわけですが、東北の子どもたちには今後何が必要だと思いますか?

八島さん:私自身がそうでしたが、チャレンジしてみようと一歩踏み出せたのは、周りに応援してくれる大人の存在があったからだと思うんです。

応援してくれる大人がいないと、せっかく挑戦したいことができても社会の流れに飲み込まれて結局やらずに終わってしまったりもするので。

ーー社会の流れに飲み込まれてしまう。

八島さん:私は高校生の頃に、被災地の子どもたちを対象にしたオーストラリア留学に参加したことがありました。留学中は異文化体験を通して大きく成長することができ、将来への大きな希望を描けるようになったのですが、プログラムが終わった後、日常生活に戻ってしまい次につなげることができませんでした。

矢部さん:いやもうまさに!底上げでは「東北ターンLab.」という事業を行っているのですが、東北に縁がある若者を対象に東北をフィールドにみんなで一緒に学ぶプログラムを開催しています。例えば、高校時代に地域で頑張って活動していた人が、大学に進学した瞬間にコミュニティが全くなくなってしまって。と同時に、高校時代に将来挑戦してみたいと思っていた心の炎のようなものが消えかけているようなことが起こっているのですが、それってすごくもったいないなと思って。2年ほど前、コロナ禍だったのでオンライン上で大学生を中心に、学びのコミュニティを始めたんです。

八島さん:私も参加しましたが、自分を見つめなおす機会にもなってすごくよかったです。

「東北ターンLab.」は4か月を1タームとして開催している。2023年12月から4期がスタート。初回は石巻市で合宿形式で開催。全国から9名が参加し、東北地域や自分たちの将来について学び、話し合う時間となった。

矢部さん:基本的にはオンラインで繋がりあえるので、東北に縁がある若者は全国どこにいても参加できます。これまでの出会いや、東北の地で希望や夢を抱いた気持ちを忘れないで生きて行ってほしいんですよね。

特に東日本大震災の被災地の若者たちは、機会が多かったはずですから。

ーー今もたくさんの子ども支援団体が活動している地でもありますし、他の地域よりも支えてくれる大人たちや機会が多いようにも感じます。

矢部さん:もちろん生活再建のために大変な思いをしているご家庭も多いですが、全国の大企業やボランティア、NPO法人など、たくさんの人たちの知恵や時間、お金が東北に注がれてきたのも事実です。与えてもらった機会を東北や日本の未来のために活かしてほしいなという思いも込めて、僕は今も活動しています。

相内: 僕は若者が自分自身を見つめなおすワークショップをつくって進行していますが、八島さんのように地元に貢献したいと戻ってくる若者に出会うと感動します。よく育ってくれたなって。

八島さん:恵まれている環境でしたね。みやっこベースと出会う前は、自分が知っている大人って、自分の親や親戚、学校や塾の先生しかいませんでした。みやっこベースに通い始めてからは、早川さんやボランティアで入ってくれていた大人たちと出会って。年齢も性格もさまざまないろんな大人たちと話せる環境ができて視野が広がりました。

八島さんが学生時代に参加した「大人の話を聞く会」。地元で働く大人から話を聞き、様々な価値観に触れる機会となった。

ーー心の炎のようなものは、生きていく上で重要となってくるんでしょうか?

矢部さん:なくても生きられると思います。極端な言い方をすると、自由に生きられればいいと思ってるんです。でも社会や環境の影響で、自由に生きられないところがまだまだ東北には多くて、東京に憧れて出て行ってしまう若者が多い。

地域が割と画一的な思想で動いていると感じていて。高校生は勉強して国公立の大学に進学して、一浪すると近所の人がざわつき、2浪するとさらにざわつき、3浪した暁にはもう触れられない話題みたいな。

相内:そうそう、わかる。

矢部さん:僕なんか、23歳で大学に入ったっていう話をすると、気仙沼の保護者の方々は一瞬言葉を失ってしまう(笑) 高校からの5年間、何やっていたんですか?と質問されて、「いや実はビリヤードでお金を稼いでいまして…。」と話すと、「え?めちゃくちゃ…」みたいな反応が返ってきたりも。そういった画一的な思想であったり、こうあるべきという考えが東京など大都会には少ないんですよね。どんな道を選んでも許されるような空気があって。バンドマンを目指してもいいし、大学中退して起業しちゃう人だっている。もっと言うと、ニューヨークで多様なクリエイティビティが発揮されて盛り上がるのは、文化も人種も考え方も多様だからなんですよね。

相内:僕は仙台で生まれ育ちましたが、自分も周りも、東京はすごいっていう意識が強かったし、仕事をしてからも判断を仰ぐときは東京にいる人になることが多くて。日本全国、東京に意識が向いているところがまだまだ多いと思いますが、ずっとそれが疑問でした。

矢部さん:そうだよね。どこに住んでいても、どんな環境にいても、その人がその人の人生を、その人なりに生きられればいいなと思っているだけなんですけどね。そのためには、隣りで「いいじゃんいいじゃん」とか、「僕はこうだったよ」とか言ってくれるような大人、応援する人が必要だなと思っています。

ターンLabo.参加者とともに大槌町へ。一番左が矢部さん。

ーー八島さんと同世代は、宮古にUターンで戻ってくる人が多いそうですね。

八島さん:そうですね。戻ってきた同級生や後輩もいて、震災を経験したことで地元に戻りたいという気持ちが強くなったと話していたので、私と同じだなと思って。

矢部さん:僕は大学の教員もやっていますが、そこでの研究を通してわかったのが、Uターンで地元に戻る割合が一番多いのは沖縄なんですよ。一方で、失業率が一番高いのも沖縄だったりします。Uターンについて語られるとき、仕事があるかで語られることが多いですが、そのロジックだと沖縄の割合が高いのはおかしいですよね。

ーー確かに…。

矢部さん:そこには何があるのかと僕は分析をしていて、一つは寛容性だと捉えています。自由に生きられる環境がそこにはあるのか。沖縄には寛大に受け入れてくれる雰囲気があるんでしょうね。気仙沼でも「Uターンで帰ってきたらどう?」って若い子たちに聞くと、仕事があればって答えるんですが、「仕事があっても帰ってこないでしょう?」ってさらに聞くと、「帰ってこないっす」って結局言うんです。仕事だけ用意しても帰ってきません。地域に、その人を包み込めるような環境があるのかどうかということがすごく大きくて。

彩香の後輩が先日宮古に戻ってきたみたいだね。近くに気を許して話せる彩香のような存在がいたり、地域で受け入れて支えてもらえるような関係性があることが、帰ってくる大きな理由になるんだと思います。

本質的な復興は人材育成にあり 次世代が創り上げていく東北に

相内:応援してくれる大人が外からたくさん入ってきて、被災地の子どもたちを支え続け、地域の変化を後押しするような活動が続いていることをすごく良いなと思う一方で、結構いま危機感を感じていることが一つあって。こうした都市部の人たちとの交流がとても減っているんですよね。

矢部さん:そうですよね。

相内:震災直後は、大人も大学生もたくさん被災地に来てくれていましたが、今はそんなに来なくなってるんです。底上げが好きだから来るとか、ある団体で学びたいから来るとか、一部の志を持った人たちは来てくれるのですが。交流の機会が減っているのはすごく課題だなと思うんですよ。

八島さんの世代は、矢部さんたち“立ち上げ世代”との出会いや、国からの支援も手厚かったので様々な機会があったと思いますが、その下の世代はこれからどうなっていくんだろうって。

八島さん:確かにそうかも。たくさんの大人たちにしてもらったことを次の世代に恩送りしたいという思いはあるのですが、まだ成果をあげられていなくて。子どもたちにも機会を与えられていない気がしていてモヤモヤしています。

あと、矢部さんたちの世代は、たくさん苦労があって、泥臭く失敗を繰り返しながらやって来た中で実績も出せていると思いますが、私たちはまだ東北の他の地域の同世代と繋がれていませんし。世代交代をしようとみんなで言いつつも、まだ上の世代に守ってもらっている感じがしていて。

ーー世代交代をしたいという話も出るくらい、同世代でも子どもたちを支える活動が進んでいるんですね。

相内さん:そうですね。ハタチ基金の助成先団体全体を見ていても、八島さんみたいに、自分が支えられて良い体験ができたと思った若者が、次の世代に届けたいと地元に戻ってきているケースは増えているように感じます。

矢部さん:実績も人の繋がりも、起こるべくして起こるから。一生懸命やっている中で、ぶつかることが必ず起きてくると思う。そういったときに、実は隣りを見たときに同じように悩んでいる人がいることに気づいたり。そのとき初めて繋がることが僕たちも多かったように思う。

相内:先駆者はとにかく走るのが仕事だから、同じような実績を残す必要はないですよね。

矢部さん:そうそう、とにかくゲロ吐きながらやる、みたいなことは僕たち昭和の人間だけがやればいいので、僕たちができなかったことをこれから実践してみてくれると未来は開けそうだね。

相内:いやもう、被災から復興までを経験した八島さんたちの世代は、その経験を強みにして生きて行ってほしいと思います。先駆者たちとその次の世代、僕は両方の気持ちを理解しながら、東北主導で新しい動きが生まれるように、話を聞ける存在でありたいなと思っています。

矢部さん:僕は今後、子どもたちをサポートしている人たちをサポートする役割でやっていきたいな。

相内:それはすごく思いますね。

ーーサポートする人をサポートする世代がいたら、今後もずっと子どもたちを応援してくれる大人が存在し続けますね。

地域の大人が見守る中で自由に遊ぶ子どもたち(ならはこどものあそびば)

ーーハタチ基金の活動は2031年で終了します。その頃には、東北に根付いて活動をするたくさんの子ども支援団体が、末永く子どもたちをサポートできる状況になっていればいいなと願っています。8年後、どんな世の中になっていてほしいですか?

八島さん:みんなが個人の幸福を追求できる世の中になっていることが復興だと思っています。私たちの世代は、被災経験がある世代なので、地元に貢献したいという気持ちが強い人も多いのかもしれませんが、それを次の世代に押し付けるのは違うなと思っていて。結果として宮古で生きていくことを選んでくれたら嬉しいですが、1人1人が豊かで幸せに生きていられるような地域になるといいなと思っています。子どもたちが、自分で自分の幸せを掴みとっていけるような。

個人的には、8年後、次の世代を育成していく立場を同世代で確立できていれば、みやっこベースが継続して子どもたちを支えられるなと思います。

矢部さん:そのときには僕たちはもういらないね。さらに次の世代の同じ方向を目指している“親族”が増えている状態を想像するとワクワクするね。僕たち世代は、お金出して口出さないみたいな存在に、きっと8年後はなれているはず。

相内:社会全体ではまだ50代60代が権力を持っている組織は多いかと思いますが、震災復興のまっただ中で東北で活動をしてきて、20代30代の力ってすごいんだなって思ったんですよね。その世代が、まちづくりや復興の過程で出した意見の影響力が大きかった。

宮城県女川町の復興では、還暦以上の人がサポート側に周り、20代30代がアイディアを出し合って、若者中心のまちづくりを進めた。

相内:そういった意味でも、2022年に八島さんを中心に、みやっこベースの新しい居場所「みやっこハウス」をハタチ基金の助成を使ってつくったのは、僕個人としても嬉しかったです。

八島さん:ハタチ基金への寄付のおかげで実現できました。ありがとうございます。改装前は商店街の空き店舗という感じだったのですが、改装後は明るくカラフルな空間に変わりました。子どもたちの間でも徐々に口コミが広がり、今では小学生から高校生までたくさんの子どもたちでにぎわっています。

地域内だけでなく、外からの子どもたちも自由に利用できる交流スペース「みやっこハウス」多様な出会いや、子どもたちの好きなことを見つけるきっかけが生まれる場所になることを目指している。飲食可能でWi-Fiもあるため、ちょっとした休憩にも。

ーーこれから東北が本当の意味で復興したと言えるには何が必要だと考えますか?

矢部さん:やっぱり教育が大事だと僕は思っていて。人間が生きていく上での営みの全てに教育は必要です。経済軸に乗せた営みだけが大切かと言ったらそうではないと思いますし、豊かさとかウェルビーイングという観点から考えると、教育で何とかできると信じています。

震災後に、東北と東京を往復していたときに強く感じたことがあって。東北には全部は無いけれど何かある。東京には全部あるんだけど何かないって。それは何だろうって考えながら、今も大学で研究を続けています。
相内:底上げやみやっこベースのような団体が、震災後東北でたくさん誕生したことも、東北ならではの文化ですね。復興のための国の大きな財源がなかったらできなかったことも多かったと思いますし、だからこそこれで終わらせてはいけないっていう思いは強いですね。東北の子ども支援団体が創り上げた教育・人材育成におけるレガシーを、全国の人たちが自分たちの地域に合わせたやり方で、子どもたちの未来をより一層希望あるものにしていけるような世の中になっていってほしいと思います。

石川県の能登半島沖の地震で被災された方々には心よりお見舞い申し上げます。
ハタチ基金は震災直後から、東北の被災地域で子どもたちにより添い活動を行う団体に「助成」という形で支援を行ってきました。13年間の子ども支援の歩みが少しでも全国の被災地の方々にも役立てられますように。そんな思いを込めて、今も活動を続ける助成先団体のインタビューをお届けしています。

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