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法人・団体からのご支援
2025.05.16 誰かを支えることは自分の未来につながっていく~ハタチ基金 チャリティーコンサート2024~

年の瀬の恒例イベントとして開催される「『ハタチ基金』 チャリティーコンサート」

作曲家でピアニストの高柳寛樹さんとオカリナ・カリンバ奏者の堀田峰明さんが、2012年から毎年開いてくださっているイベントです。

2024年12月、13回目のコンサートが行われましたので、その一部をご紹介します。

収益の全額をハタチ基金への寄付にしてくださるこのイベント。たくさんの方にお越しいただき、高柳さんと堀田さんのオリジナル楽曲の美しい音色を聞いて、皆さんとともに美味しい食事を楽しみました。

作曲家でピアニストの高柳寛樹さん。
オカリナ・カリンバ奏者の堀田峰明さん。
ハタチ基金の卒業生 高木桜子さんも歌い手として参加しました。

今回は、震災当時、岩手県釜石市の小学2年生だった古川真愛さんも登壇。被災当時の話や子ども支援団体によって支えてもらった経験をお話いただきました。そして、現在能登半島の被災地で子ども支援の活動をする古川さんは、支えられる側と支える側、両方の視点からの気づきを皆さんに届けました。

現在東京の大学に通う、古川真愛(まなと)さん。

小学2年生で経験した 3.11の記憶

古川さん:2024年最後にこのような機会をいただいて光栄です。2024年元旦に、能登半島地震が起きました。僕は実家の布団の中にいましたが、新年の始まりにこのようなことが起きるなんて。

同時に、東日本大震災のことを思い出しました。

当時僕は、岩手県釜石市に住んでいる小学2年生で。地震が起きたときは、算数の授業中でした。小テストの問題の丸をつけた瞬間に揺れ始めたというのが、とても記憶に残っています。一斉に高台に避難をして、そこから真っ黒い津波を目にしました。ものすごい勢いでぶわーっと押し寄せる津波を。

ついさっきまで自分がいた場所を津波がのみ込んでいく光景が本当に衝撃的で。そのときは何が起こっているのか自分ではわからない状態でしたが、これまでの人生と、これからの人生が真っ二つに切り離されたような感覚をよく覚えています。

この震災で、自宅は全壊、母親と弟が亡くなりました。

震災後のつらかった記憶 誰も僕の話を聞いてくれない孤独感

古川さん:運よく被災を免れた祖母の家が同じ地域にあり、僕はそこで暮らし始めました。震災後の人生が始まったのです。色んなショックが大きかったせいか、急に高熱が出たり、急に朝起きられなくなったり、体調不良も続きました。

でも、何よりもつらかったのは、「誰も僕の話を聞いてくれない」という孤独感のようなものがずっと心の中にあったことでした。

当時は小学生なりに、被災した自分の町をこうしていきたいとか、もっと良い復興の方法があるんじゃないかと考えることがありました。でも、大人に話してみると、子どもが偉そうなことを言うんじゃないとか、何もわかってないなどと言われることが多く、自分の話に耳を傾けてくれないという感覚がとても大きかったことを覚えています。その孤独感は、震災が起きてから思春期を過ごし、高校に入るぐらいまで、ずっと抱えていた苦しさでした。

転機は「マイプロジェクト」 話を聞いてくれる大人たちとの出会い

古川さん:そんな中、転機がありました。高校2年生のときの「マイプロジェクト」との出会いです。

マイプロジェクト

高校生が自分自身の実現したいことや変えたいことをテーマにプロジェクトを立ち上げ、正解のない問題と向き合い、実際にアクションをすることを通じて学びを得ていく。被災地で子どもたちの学習支援を行う認定NPO法人カタリバに、高校生が、「支援されるだけでなく、自分たちも何かできることはないか。」と抱えてた思いを共有し実現したプロジェクト。現在は全国に広がり、「総合的な探究の時間」の授業に取り入れる学校も。

古川さん:マイプロジェクトは、例えば、部活動の成績をもっと良くしたいとか、自分の祖父母の困っていることを解決したいなど、個々の課題がある中、高校生の今の悩みに対して、どんなに小さなことでも真剣に考えて取り組んでいくことができる場でした。孤独を感じている中でも、自分のことを気にかけてくれた大人の方もいて、その方がマイプロジェクトを勧めてくれて取り組むことにしました。

古川さん:僕が選んだテーマは「防災」でした。なぜあれだけの被害が出てしまったのか、ずっと心に残っていたので。高校を卒業するまでに、一度自分の中で決着をつけたいという思いで取り組むことにしました。

例えば、僕の高校の全校生徒を対象に、防災意識に関するアンケート調査を行ったり、防災の講義をしてみたり。先輩たちも聞いている中で、とても緊張しました。他には、ドローンで大槌町を空から撮って、防災とテクノロジーを掛け合わせて何かできないかなと実験も行いました。

探究を続けた結果、町の防災を変えるきっかけに繋がったんです。防災の活動をしていることを知ってくださり、町役場の方から防災会議への参加にお声がけをいただいて。自分の考えを話すことができて、具体的な形でアクションへと繋がりました。

何よりも嬉しかったのは、住民の方々から防災の活動をしてくれてありがとうと声をかけていただいたことでした。自分が挑戦したことが誰かの役に立っているという実感を得られたことで、自分のことを信じることができるようになりました。

自分の道を自分で選択して進んでいきたい。そう思える人生に変わっていきました。

苦しみを前に進む力に変えてくれた “ナナメの関係”

古川さん:僕がなぜマイプロジェクトにのめり込めたのか。重要なポイントとなったのは、“ナナメの関係”のお兄さんお姉さんの存在でした。同級生にアドバイスをもらうとしても、自分と同じような知識や経験のレベルだったりするので、なかなか難しい状況でした。一方で、保護者や先生たちには、自分のパーソナルな部分は相談しづらいという関係性の中で、年が近い“ナナメの関係”の大学生や社会人の先輩たちが、自分の悩みや相談に付き合ってくれたんです。真剣に僕の話に耳を傾けてくれて、自分はどう考えているのか、疑問を投げ続けてくれました。そして、面白い考えだねと共感もしてくれました。

被災者としてではなく、ひとりの人間として向き合ってくれたんです。

僕がずっと抱えていた孤独感のようなものは、この“ナナメの関係”の大人たちのおかげで解消できました。少しずつですが、震災やつらい出来事から前に進むことができているように感じています。今日もこうして皆さんの前で震災当時の話ができているのも、支えてくれた大人たちのおかげです。

支援される側から支援する側になってみて思うこと

古川さん:現在僕は、能登半島の被災地支援に携わっています。豪雨被害の泥かきのお手伝いであったり、全国からのボランティアの方々が集まる拠点の運営など、様々です。中でも、泥が入り込んでしまって運営できなくなった幼稚園の復旧作業に携わったときのことは心に残っていて。再開したとき、子どもたちが元気に遊んでいる光景を見て、この復旧作業に携わることができて本当によかったなと実感しました。

能登の人たちと関わる中で、自分自身にとって大きな気づきがありました。

被災された方々は、自分が能登にいること自体にすごく感謝をしてくださって。もちろん復旧作業に対しても喜んでくださったのですが、ここに来てくれてありがとうと声をかけてくれるんです。

自分の存在を認めてもらえたような、嬉しさで温かい気持ちになりました。支援をしている側なのに、たくさんの大切なものをもらったように思いました。

子どもの頃からずっと、支援をしてもらう立場にいた僕ですが、今、誰かを助ける側になることができている。支援のバトンが巡っていくサイクルができて、その中に自分がいられることがとても尊いことに感じています。

今苦しんでいる誰かを支えることは、未来の自分にもつながっていくことだと思います。東日本大震災があった時に僕たちを支えてくださったことが、能登の支援にもつながっています。この場をお借りして、感謝の気持ちをお伝えしたいと思います。ありがとうございました。

今村:ハタチ基金を設立したとき、誰よりも苦しい体験をした子どもたちは、もしかしたらそれを糧にして生きていける力を持つ可能性があるかもしれない。でも、そうなるまでには時間がかかるだろうし、まずは安心安全な場を作って支えて行くことが必要でした。苦しい体験が、いつか強さにつながっていくはずだと信じてやってきました。全員が全員、前を向けているわけではなく、今も引きこもっている子どもがいたり、もう頑張れないと思っている人もいて、今日話してくれた古川真愛くんは、何万人の中の一人の形ではあります。

でも、真愛くんが皆さんの前でこうしたお話ができていることは、毎年このコンサートを開催してくださっているお二人を始め、東北の子どもたちに関わる人たちが、長く関わり続けた結果生まれた、一つの証のように感じます。

ハタチ基金の活動期間は残り6年となりますが、引き続きご支援をよろしくお願いいたします。今日は、ありがとうございました。

取材・文 石垣藍子